2023.05.23 文法的に合理的な学習者(仮名)

修論のデータ収集

 今日も学内で話しかけて調査協力お願いして回ってるけど、もう5回連続拒否されて今一時的にメンタル落ち込んでます。時間帯的に授業の前だったので次授業があるのですみませんが多かった。仕方ないです。こういうのはほんと運。しかしこう、授業がないからごめんなさいは私に直接向けられた拒否ではないのに、私に直接向けられた拒否に感じてきて、私は必要ない人間なのかと思わされる感じがややあります。就活のときたくさん不採用通知もらったときと同じ気持ちで懐かしい。こんなときは自分の心の動きを客観視するようにしないと危ないですね。

 今までの拒否理由リスト
 ・次授業あります
 ・勉強しにきたのでごめんなさい
 ・友達と約束があって
 ・自動車学校にいかないといけなくて

 マイナスのことばっかり書きましたけど大丈夫です。

文法的に合理的な学習者

 昔(?)の経済学は、自分の利益が最大になるように合理的に行動する人を仮定していろいろ研究あったみたいですけど、日本語教育にもそういう考え方、取り入れられないかなーと思いました。例えば、教えられた文法的知識を完璧に習得し、教わった文法知識だけをもとにして発話をする学習者がいると仮定します。これ何か名前をつけたいんですけど、とりあえず「文法的に合理的な学習者」みたいに呼んでおきます。この学習者に「~する」で終わる動詞のテ形は「~して」になる、っていう文法を与えたら「運動する」のテ形として「運動して」を産出するわけです。ただこの文法に基づくと、「擦る(こする)」のような「~する」で終わる五段動詞もテ形は「擦して(こして)」だと言ってしまうわけです。ただ最初に教えた文法を完璧に使いこなせる架空の存在です。
 
 なんか今書いてて思ったけど…
 文法的に合理的な学習者に文法Aを与えました。すると彼は、我々から見て正しく自然な表現だと感じるような発話を常にするようになりました。つまりそれって、文法Aが完璧だったってことですね。文法の研究っていうのは文法的に合理的な学習者が常に正しく自然な表現が産出できるような文法のカタチを明らかにすること。言い換えると、文法的に合理的な学習者が常に正しく自然な表現を使えるようにすることなんですね。
 
 しかしこれは、日本語教育にはなかなか持っていけない考え方かもしれない。実際の学習者は教えられた文法的知識を完璧に習得しないし、教わった文法知識だけをもとにして発話するわけでもない、非合理的な挙動をします。間違えながら少しずつ正しい言い方を習得していきます。初めから文法Aの真理を教えてもダメだから、易しいところから徐々に難しいところへと移っていかないといけません。そういう意味では、日本語教師は言語のカタチを完璧に分かっていたとしても、それを全て教えることはできない。文法的に合理的な学習者を想定して教案を作るのはかなり、というか99.9999%無理だろうと思う。




大学院での生活