生物に「いる」、無生物は「ある」を使うのは違います!

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 存在を表す「いる」と「ある」の使い分けについて、生物には「いる」を、無生物には「ある」と使うというような説明がよくされます。先生が限られた語彙しか使えない初級の授業では、この説明、とりあえず良いと思います! でもこの説明は正確ではありません。

 (1) このあたりにいつも白バイいるから気を付けて。
 (2) 耳鳴りがする所には幽霊がいるそうですよ。

 生物に「いる」、無生物に「ある」を使うとすれば、上のような例文は変です。
 白バイ隊員が乗る車両を「白バイ」と呼ぶのであって、それは人ではなく物。だから「ある」を使うべきですがここでは「いる」を使っています。普通死んだあと幽霊になるから幽霊は無生物と考えるほうが自然。でもなぜか「いる」を使います。なんででしょう。

 

「いる」と「ある」の使い分け

 生物は有情物、無生物は無情物という言い方をします。
 有情物の代表的なものは人や動物で、無情物の代表的なものは机、ペン、石などです。存在対象の有情、無情が「いる」「ある」の使い分けの根拠となるのに問題があるのは、例文(1)~(3)を見ても明らか。なので有情、無情ではない別のカテゴリーで考えないといけません。

 では、次の例文(4)(5)はどちらも正しい文に見えますか?

 (4) 車がいるから気を付けて。 (動きがある)
 (5) 車があるから気を付けて。 (動きがない)

 「車がある」というときは、止まって動かない車に聞き手にぶつからないよう注意喚起する場面が想定できます。まさか動いている車に対して(5)のような言い方はしませんよね。つまり「車がいる」というときは車が動いていて、例えば聞き手が車道にはみ出さないように注意喚起している場面が想定できます。

 どうやら私たちは、同じ対象であっても、それが動いているか動いていないかによって「いる」と「ある」を使い分けているようです。

 

意志的に動けるものには「いる」を使う!

 自分の意志で動くことができる対象には「いる」を使い、自分の意志で動くことができない無意志的な対象には「ある」を使っています。

いる
(意志的に動くもの)
ある
(無意志的で動かないもの)
人、動物、昆虫、魚…
ゾンビ、幽霊、ロボット、幽霊、神…
ペン、机、髪の毛、家…
植物、死体、魂、チャンス…

 無情物には「ある」を使うという説明では、もう死んだはずのゾンビや幽霊、ロボットなどの通常「いる」を使うものの存在を見逃しています。また、植物は生命があって有情物であったとしても、意志的には動けないので「ある」を使います。

 ※情報やチャンスなどの無形の抽象的概念にも存在にも「ある」を使います

 

主観的に「意志がある」と感じれば「いる」を使える

 意志的に動いているものは「いる」を使うと言いましたが、ゾンビって本当に意志的に動いているんでしょうか。
 実際ゾンビは架空の生命体なので検証のしようはありませんけど! ちょっとここは真面目に、人がウイルスに感染して、その身体がウイルスの制御下になった個体をゾンビとして考えてみます。

 ウイルスに感染することによって元々身体を制御していた生命体が<死んだ>と言えるのかどうかは実際分かりませんけど、身体をコントロールすることができなくなった以上、その生命体が<死んだ>と考えるのは自然に感じます。それは見た人の主観的な認識です。

 元々身体を制御していた生命体が<死んだ>と感じれば、身体はその生命体の意志によって動かすことが叶わないので「ある」を使いたくなるところ。ところがウイルスが身体を奪ってコントロールしています。目には見えないウイルスによって身体が動かされているため意志を持っていると感じやすくなり、ゾンビに対して「いる」が使いやすくなると考えられます。元々の生命体の意志ではなく、ウイルスの意志によって身体が動いているように感じるのがポイントで、仮にウイルスに意志がないとしても、主観的に意志があるように感じれば「いる」を使います。まあゾンビさえも死んで動かなくなっていればようやく「ゾンビの死体がある」と言えますけどね。

 (6) 永久凍土の下には未知なるウイルスがいるそうだ。 (うごめく感じ)
 (7) 永久凍土の下には未知なるウイルスがあるそうだ。 (概念としての存在)

 例文(6)のウイルスは、まさに永久凍土の下で地上に出られるのを今か今かと待ちわび、あるいはそこで動き回っているようにも感じられます。(7)のウイルスは動くというよりも、ウイルスという概念そのものを指すような使い方です。

 「ウイルス」という同じ存在対象であったとしても、意志性や動きを前景化したいときは「いる」を使い、概念そのものを指す場合は対象の意志や動きといったものが背景化されるので「いる」が使いにくくなります。意志があるかどうか、動いているかどうかを判断するのは認識する主体ですから、「いる」や「ある」は常に主体の認識を反映して使い分けされます。

 

「白バイがいる」はどう解釈する?

 はじめの例文に戻ります。「白バイ」は車両自体を指す言葉で、車両自体は意志的に動くとは言えません。だから上記の使い分けの規則からすれば「ある」を使うべきですが、ここでは「いる」を使っています。よくよく考えると、どこか物陰に隠れて検問している白バイにはやっぱり「いる」を使うのが自然です。

 (1) このあたりにいつも白バイいるから気を付けて。

 ここにはメトニミー(換喩)と呼ばれるヒトの認知作用が関係しています。メトニミーは「白バイ」と言いつつ「白バイに乗っている人」を指すような比喩の一種です。他の例として「隣の部屋がうるさい」などもあります。メトニミーは隣接性に基づいて指示対象をずらした比喩表現です。
 「白バイ」と書いていますが、それは「白バイに乗った人」を指しているので意志的に動くもの。だから「いる」が使えます。

 それに、白バイは運転手である白バイ隊員によってコントロールされており、白バイ隊員の意志通りに走り回ります。白バイに意志はなくても、意志的に動く存在のコントロール下にある以上、私たちはそれを意志的に動くものと認識しやすくなります。これも主体の認識と関係していますね。

 (4) 車がいるから気を付けて。 (動きがある)
 (5) 車があるから気を付けて。 (動きがない)

 「いる」を使った話し手はその存在対象に意志や動きを感じていて、「ある」を使うと意志や動きを感じていないか、あるいは概念として扱っているということ。
 より詳しくという方は、「有生性」「アニマシー」で検索してみてください。

 





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