日本語コラム

 先日このブログを見て頂いている方から直接質問を受けましたので、ここでもお答えします。

“立ちながら食べる”という日本語は正しいですか?

 結論を言いますと正しくはないですが間違いとも言えない(微妙)。このように使う日本人も実際います。
 しかしこの問題を詳しく話すには、「ながら」と「まま」の違いについて触れなければいけません。
 ということで少しその話をしたいと思います。

 
 まず、動詞を分類する手段の一つに瞬間動詞があります。これは瞬間的に行われる動作のことを指し、その動作が行われた後もその状態が続きます。
 開ける、立つ、座る、死ぬ、始まる、終わる、触る、(電気を)つける等…

 「ながら」にはこういった瞬間動詞は原則接続できません。
 「ながら」はその動作が行われている間に何か別の動作が発生することを表しますので、この部分が瞬間動詞の性質と合わないからです。
 「死にながら動かない」が変だと感じるのはそのためです。

 このような場合は「まま」を使います。「まま」は瞬間動詞にしか接続できない文法です。動作が繰り返されるのではなく、状態が継続しているという性質を持ち、これが瞬間動詞と合います。
 実際は「死んだまま動かない」が正しい言い方です。

  

ながら

 動ます形に接続して、なんらかの動作中に別の動作をすることを表す。
 瞬間動詞には接続できない。

 ✕ 電気をつけながら外出する。
 〇 テレビを見ながらパソコンする。
 〇 携帯しながらトイレする。

 

まま

 動た形に接続して、その状態が継続している様子を表す。
 瞬間動詞に接続する。

 ✕ 食べたまま話す。
 〇 電気をつけたまま外出する。
 〇 触ったまま離さない。

 
 

 最初の質問に戻ります。
 「立ちながら食べる

 上記の通り「立つ」は瞬間動詞ですから、通常は「まま」に接続します(あるいは「立って食べる」)。これが「正しくない」とする根拠です。

 しかし「立つ」「座る」「寝る」などの一部の瞬間動詞では「ながら」に接続しても許容されてきている側面があり、これが「間違いでもない(微妙)」とする根拠となります。
 立ちながら食べる、座りながら話す、寝ながら食べる…
 ※この場合の「寝る(横たわる)」は瞬間動詞と思われる。

 日本語学習者としては、瞬間動詞は「まま」、それ以外は「ながら」と覚えておきましょう。

日本語コラム

 山田さんのように遅刻しないようにしなさい。

 何気なく質問された文なんですが、学生いわくこの文から2つの状況が推測されるそうです。

 一つは、山田さんが遅刻した可能性
 もう一つは、山田さんが遅刻していない可能性

 脳が刺激されるパズルのような日本語。

 そして学生からの質問は「山田さんは遅刻しましたか?」というもの。
 さて困ってしまいました…。

 とりあえず家まで持ち帰ってちゃんと調べてみました。

 結論から言いますと、2つの可能性が同時に存在しています。
 可能性を消しきれてないのがこの文の面白いところです。

 一つ目の「ように」は例示の用法。これは前に接続したものを参考とする意味を持ちます。
 二つ目の「ように」は勧告の用法。遅刻しないことを求めています。

 遅刻禁止の勧告には遅刻していない人を模範としてもいいし、遅刻した人を教訓としてもいい側面があり、これが2つの状況を生み出しています。

 実際会話の場面では周囲の状況や文脈によって判断するため、このような混乱は起こり得ません。
 山田さんが模範的人間なのか、それとも遅刻常習者だったのかはその場にいた人のみぞ知ることですね。

 うーん、こういうの聞かれても即答できるようになりたいです…。

日本語コラム

 私最近「可及的早く」という言葉について考えています。
 これは私がわざと考えた言葉ですが、あまり聞きなれない言葉ですね。

 これは「可及的」と来れば「速やかに」が来るものだという経験則によるもので、語呂も原因の一つかもしれません。
 両者は呼応しているため、「可及的早く」も「可及的急いで」も同様違和感があります。

 「可及的」と同じ意味である「できるだけ」「なるべく」に言い変えれば違和感がないところを見ると、「可及的速やかに」でもう一つの定型句になっているのでしょうね。

 しかしながら意味は全く同じですし、当然文法の間違いもありません。
 
 このような場合、日本語教師として果たして訂正すべきでしょうか。

 学生によっては「日本人が話す日本語を勉強したい」という人もいます。
 ただそういう人達ばかりではなく、間違えてもとにかく話してみるという人もいれば伝わりさえすればいいんだという人もいます。

 許容できる水準は個人によって違いますので、訂正するかどうかはそれに準じて判断すべきでしょう。

 場面に応じてどう表現すべきかの経験は本来自ら培うものですから、意味が十分伝わる以上誤用とは言い切れません。

 頻繁かつ細かい訂正は時に学習者の意欲を削ぎ兼ねないですが、訂正しなければ日本語教師の顔が立たない。
 このあたりは難しい判断ですね。